
ライター 栗田 涼(Ryo Kurita)
著者経歴
10代~20代前半
和歌山の県立高校卒業後、上京し、フリーター、新聞配達員。
途中から親が心配するかという理由だけで、受験勉強をはじめる。
毎朝3時起きで、新聞配達のバイトで生計を立てる。休みは2ヶ月に1回の新聞休刊日のみ。
朝刊を自転車で約300世帯に配り終えたあと、新聞店のおかみさんの作る朝ごはんをいただく。
カレーが絶品だった。
昼間は、予備校に通い、勉強漬け。
そして、夜は当時住んでいた家の隣の親切なおばさんが”どうせうちの旦那と子供に作っているんだからついでにどうぞ”と毎日栄養価の高い食事をわざわざ持ってきてくれた。
本当においしかった、ありがたかった。
当時の私は19歳。1日10時間の勉強を半年続け、受験の直前まで新聞配達をし、早稲田大学へ入学。
周りの人に本当に世話になった。助けられた。一生感謝するしかない。
だが、入学したものの、大学生活にまったく意味を感じることができず、悶々とするばかりであったため、ほとんど授業には出ず、音楽活動と肉体労働系の日雇いバイトばかりして、4年間を過ごす。
ちなみに、大学のクラスの友人はひとりもいない。
音楽がきっかけで出会ったの友人とは今でも親友。
組織には流されず、自分の価値観をしっかりと持ち、かつ流行りや人の意見に迎合せず、価値観の違う人を不用意に批判したりも決してしないタイプの人間。
3年生の時に、フジテレビのバラエティー番組の中の勝ち抜きフォーク合戦のオーディションの予選会にオリジナル曲(ギターの弾き語り)を作り、参加したが、選考結果をまたずに番組が打ち切りとなった。ww
バブル期最終年での就職活動

会社員になる予定はなく、されどやりたいこともなかったため、まともな就職活動はしなかった。
大学4年時、母の病死もあった。とにかく辛かった。
当時の就職活動は、大学生にとっては、超売り手市場。
バブル崩壊がまもなく訪れることなんて、誰も想像だにしなかった。
バイト先の何歳か年上らしき先輩が「みんな浮かれているけど、日本はそろそろ、やばいことになるよ」と言っていたのを今でも克明に覚えている。
さて、企業の青田買いは熾烈を極めていた時期であった。
当時、入社直後の1年目社員は、就職活動をしている同じ大学の後輩に入社させるようリクルーターとしての使命を持たされていた。
今では考えられないほどの好景気でもあったので、大手企業のOB訪問に行くと食事、飲み代など、会社の経費は使い放題。
社会人1年目の若造が、薄っぺらい人生論を横柄にしたり顔で語る姿には、異様なまでの違和感を感じた。
世の中のほぼ全員が大いなる勘違いをしていたのだ。
その勘違いで人生を狂わせてしまった人、自殺した人がどれだけいたか….
そして、OB訪問もしていない1社から運よく内定が出てしまったwww。
当時は、内定が出た学生を事前研修と称したリゾート施設での缶詰ツアーが当たり前であった。
ご多分にもれず、私も何も考えずにちゃっかり参加し、リゾート気分に浸る。
東京駅に集合し、ツアーの旗を持つ添乗員について、カルガモの集団のような内定者がぞろぞろついていく。
私もその1人www。
新幹線に乗り、名古屋で近鉄電車に乗り継ぎ、伊勢志摩のリゾート施設に到着。
パーティー三昧、部屋の冷蔵後の酒もつまみも飲み放題、食い放題、かつ広大なリゾート施設も使い放題で心が満たされないわけがないでしょww。
人はそんなに強くないし、自分もぜんぜん骨太ではないことをここで知る。
気持ちのいいことが好き!ww
当時は携帯電話もメールもないので、他の企業から学生に連絡する術はなし。
(拘束旅行に参加したら、入社がほぼ決まる)
さらには、数ヶ月後、舞浜のリゾートホテルでの宿泊、パーティ付、ディズニーランド1日券付の豪華な内定式に出席し、さらに心が満たされるw。
会社は最高と勘違いし、気分をよくしてそのまま入社することを固く決意し、エスカレーター式のパラダイスの人生を歩めることを確信するww。
後から、それは幻想であることに気づくことになる。
その直後に、バブルは崩壊。(1991年末~)
当時、バブルが続くことを前提にゆとりローンで高額マンションを購入したミドル層を中心としたサラリーマンは、その後ローン地獄に苦しむことになる。
金を貸しすぎたメガバンクは不良債権処理で大変なことになる。その他いろいろあったww。
社会人デビュー

さて、私が就職したのは、某大手東証一部上場企業のとある事業部。
北米専門の部署に配属。
その後、部署異動、拠点統合もあったが、その会社には8年半在籍した。
新人研修は、沖縄へ。
同期の好みの女の子と研修中に盛り上がり、何度かデートするも、しばらくして振られる。www
気づいたら、その子は、先輩社員と付き合っていることが判明(泣)。
仕事は楽しかった。
入社から5年半もの間、海外の現地法人であったバンクーバー、サンフランシスコ、ニューヨーク、ハワイのオフィスとやり取りをする日々。
当時は、インターネットもメールはなかったので、通信手段は、英語でのテレックスか国際FAX。
そして、日本人スタッフとの国際電話。
外人が出ると、「Could you please talk for Japanese speaking staff?(日本語スタッフに代わってもらえますか?)」泣
英語は大の苦手www。
海外に行く機会もけっこう多かった。
仕事とプライベートで行った国と場所
・アジア
バンコク、香港(中国返還前と後の2回)、マカオ、深圳
・カナダ
バンクーバー、ウィスラー、ビクトリア、バンフ、トロント、ナイアガラ、ケベック、オタワ、モントリオール、ローレンシャン高原
・米国東部
ニューヨーク、ワシントン、ボストン、バッファロー、マイアミ、ボカラトンリゾート、キーウェスト
・米国西海岸
サンフランシスコ、サンノゼ、ロサンゼルス、サンディエゴ、モントレー・カーメル、ラスベガス、グランドキャリオン、ペブルビーチ
・メキシコ
ティファナ
・オーストラリア
ゴールドコースト
・ハワイ
オアフ島、マウイ等、ハワイ島
・ヨーロッパ
ロンドン、パリ、ローマ、ナポリ、ポンペイ、アムステルダム、ロッテルダム、ミデルブルク、ブリュッセル、等々。
20代後半~30代前半までの3年間、外務省後援の外郭団体との共同企画の青少年国際交流事業で、小学生~高校生を米国、英国、アジア各国へ短期派遣する事業を担当。
プロジェクト運営全般を取り仕切る。
地方自治体への事業企画書の作成、マーケティング・集客、説明会、銀座界隈の地方新聞社支局への飛び込みによる新聞記事依頼、地方の中学校での教員、父兄への説明会、工程表の作成、チケット、ホテルの手配、都内・成田空港近くのホテルでの事前講習会のオペレーション全般。
ほとんど休みはなし、徹夜も当たり前(泣)。
大手ネットワークビジネスのディストリビューター2,000名のインセンティブツアーの米国サンディエゴ、オーストラリアのゴールドコーストにて現地スタッフとして派遣される。これは死んだ!(泣)
大手外食チェーンの販促キャンペーンで、米国のユニバーサル・スタジオの貸し切りイベントのスタッフとして参加。これも、死んだ(泣)。
30代前半では、日蘭修好400周年記念の年に、オランダの田舎町ミデルブルクの修道院を貸し切り、ジャパンフェスティバルのプロジェクトメンバーとして参加。
広島から日本舞踊の団体出演のコーディネートをし、寝食を共にする。
※団体の舞台用衣装のスーツケースがオランダのアムステルダム空港でロストバゲージとなり、大トラブルになる。(泣)
会社の上司
3人の上司にも恵まれた。
仕事の質にこだわりを持ち、厳しくも思いやりのある人に出会えたことは、非常にラッキーだった。
これはとても自分にとって、大きかった。
その上司の1人は、オン、オフがしっかりとしていて、趣味は本格的キャンプ。
11月の長瀞の川辺での極寒キャンプで、冷たい風が吹くたびに、舞い落ちる真っ赤な紅葉の落葉は、25年以上たった今も脳裏に焼き付いている。あれは、最高だった。
ちなみに上司がバカだと人生左右しかねないので、対策を怠らないことをあなたにはお伝えしたい。
私は、その後、まともな上司にはあまり恵まれずに、この対策をまったく取らなかったため、ダメリーマン人生を数十年過ごすことになったwww(泣)。
サラリーマンとして上司に対する処世術を自ら学ぶことなく、放棄したまま歳を重ねていった。
さて、話を戻すと、新卒で東証一部上場企業への入社後、数年間はバブル期の余韻で業績は伸びていたが、90年台後半からは失速し、残業代は支給ストップ、給与カットとなった。
そして、私は転職した。
その事業部は、本体から切り離され、今は別会社としてこじんまりと存続しているらしい。
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基本は奥手で女性は苦手だったが、20代は多くの女性と付き合った。今思うとすべて中途半端だった。彼氏のいる女性との社内恋愛でボロボロになる、結婚願望バリバリの女性、オカルト好きの女性、やんちゃな看護婦、承認欲求強すぎの女性等々。
すべて、短期間で終了。仕事が忙しすぎたというのもあったが。
少々変わり者の女性と35歳で結婚。子供は流産した。
転職から起業まで
私は、新卒で入社した会社に10年近く在籍したのち、退職し、転職。その後、転職は4回ほどする。
バブル崩壊後の日本は、失われれた20年と言われているが、私自身は、それがあったからこそ、縮退社会になることを感じ、そのための準備はしてきたように思う。
例えば、商工会議所主催の起業塾、起業家養成スクール、企画系の塾、ビジネススクールに通い、フレームワーク、財務、マーケティングなどを学んできた。
かけた投資額は500万円はゆうに超える。
が、なぜかサラリーマンを26年もやってしまった。ただ根性がないだけというか、ただ踏ん切りがつかなかったのだ。自分に甘かっただけだ。
49歳の春、インターネットの有効活用方法を知り、本業では毎日14時間以上働きながらも、朝3~4時起き、週末の時間を使い、独学でノウハウを学ぶ。
約2年弱もの間、1日平均4時間睡眠で365日休むことなく、準備のために時間を費やしてきた。
そして、サラリーマン生活約26年を経て、2016年12月ライター、ブロガーに転身し、2018年1月に完全独立する。
さて、数え切れない失敗から学び、多くの人に感謝しつつも、人生楽しむのは、これからさ!